不定冠詞

今 薫 書き下ろし連載小説

カテゴリ: 6

 期待とは裏腹に、ひと月経っても母の所在は確認できなかった。警察からもあれ以来有力な情報は得られなかったし、新たに出金された形跡もなかった。そのことが徐々に不安を膨らませ、家族の雰囲気も気まずさを増していた。父とは食事の時以外は会話らしい話はしなかったし、姉との間は隆司のことで刺さった棘が抜けないでいた。

 十一月半ばの秋の気配が去ろうとしていた夕方に、仕事を終えて帰宅しようとするとあの隆司からメールが届いた。

 

(佳代のことでどうしても頼みたいことがある。今から少しだけ時間をください。隆司)

 

隆司とは二度と会いたくはなかったし、姉との付き合いを告げられた時の憤りは、そのままの形で残っていた。返信をすることもなくエレベーターで一階ホールに降り、守衛さんに挨拶をしてエントランスを出ようとした時、正面の柱に寄りかかる隆司を見つけた。そして無視して通り過ぎようとする私の右腕を荒々しく掴んだ。

「逃げるなよ!」

「もう来ないで!」

「そう言うわけにはいかないよ。佳代が大変なんだよ!」

「・・・・・」

いつも何処となく醒めた顔つきで薄笑いを浮かべ、私を自由になる女と決めつけるような隆司の表情は、そこにはなかった。隆司と付き合っていたとき、隆司は意のままに振る舞い、私は躊躇いながらもそれを受け入れた。その様を「年下の男なんてそういうもんだよ」と典子に言われたとき、「年上の女はそういうものか」と半ば諦めた。体を求められれば高揚もするし快感も得られたが、そんな自分を不幸かもしれないと自覚していた。モデルハウスの件が噂になり身を引こうと退社した時、私の中に小さな命が確かに息づいていた。典子に頼み込んで、典子のカレに同意書のサインをもらい自分の意思で分娩台に上がった。「美枝の勇気は真似できない」と典子に慰められたが、現実はボロボロだった。あの屈辱や悲しみ、無力感と罪悪感は決して忘れられないだろうと思った。そして母親になることを自分の意思で放棄したという事実が私にのしかかり、私を潰した。そして私は深い闇に沈んだ。隆司はそれを知らない。僅かな時間であったとしても父親になったことを隆司には知られたくない。それが私の、年上の女の唯一の抵抗だった。

 

 市役所通りの先のファミレスで隆司と話した。夕方の家族連れの来店が始まり店内は慌ただしさに包まれていた。ドリンクバーを二つ注文する。付き合ってた当時なら自分の好みを言って「取ってこいよ」と命令する隆司が、自分からカプチーノとレギュラーを運んできた。

「佳代さぁ・・・・・」

「私の前で呼び捨てにしないでよ!」

「佳代、妊娠したんだ」

「・・・・・」

私は思わず絶句した。隆司は私にしたのと同じ過ちをこともあろうに姉で繰り返したというのか・・・・・。まさか姉が、隆司の子を妊娠したなんて・・・・・。私は混乱し、同時に一瞬、父のことが脳裏をよぎった。カプチーノを一口含み、かろうじて飲み込む。子供達の奇声で溢れる店内、そして真っ当に生み育てる親たちのざわめき。私は、私の人生の対極の光景のなかに埋もれていた。

「隆司、何言ってるのかわかってる?」と私は冷ややかに浴びせた。

「佳代、四十六だし、俺も油断してた」

「そういうことじゃないでしょ!」

「それでさ、佳代、堕さないってきかないんだ。でもどう考えても無理だろ?」

「だから・・・・・全然違う!」

「俺、家庭あるし、佳代は高齢だし・・・・・」

目の前の隆司がぼやけて短時間のうちに全体に広がり、周囲の光景が真っ白になって消えた。

私はトレーの中のフォークを掴み、立ちあがって隆司ににじみ寄った。

「最低なんだよ!」

大声で罵ると無我夢中で隆司に刺しかかった。隆司が父とだぶって見えていた。

 店内は騒然となった。私はもたれかかるように隆司と絡み、長椅子の上に倒れ込んだ。店内のあちこちで悲鳴があがり、一人の男性客が駆け寄って私からフォークを取り上げたが、錯乱状態の私はその後も叫び続けた。

「最低だよ!」

「隆司、最低なんだよ!」

幾人かに取り囲まれ、両腕を掴まれて隆司から引き離された。夕方のファミレスは、さながら修羅場と化していた。

 ほどなく警察官が駆け付け、私を取り押さえて手錠をかけた。「傷害未遂の現行犯で、十八時十三分確保」と無線連絡され、そのまま警察署に連行された。そして若い警官と婦人警官に取り調べを受けたが、幸い隆司に怪我がなかったことや、隆司が「内輪の揉め事」と証言して傷害事件とならず、またファミレス側は物損がなかったことで、「穏便に」と申し出てくれたため事件化を免れた。九時過ぎには父が、身元引受のために出向いてくれ、夜十一時を回った頃、すっかり憔悴しきった私の肩を抱き支えるように警察を後にした。
 翌日から仕事を休み、週末を挟んで何をすることもなく五日間を過ごした。その間私は何も考えることなく部屋に籠り、ただ目に映るものだけを眺めて過ごした。幼い頃から使っていた学習机の傷や購入してみたもののほとんど使わないで放置したキーボード。壁に賭けたバッグや制服・・・・・。堕胎して母親の権利を放棄した時と同じように、暗闇の中に沈んでいた。
 

 月曜の朝、気持ちは折れたままだったが、どうしても休むわけには行かないと思った。途中何度か引き返したい気分に襲われたけれど、これ以上実家に引き籠っていると自分が壊れそうだった。いつものとおり市役所前でバスを降り、広い駐車場を横切るように職場に向かう。一階ホールからエレベータを使わずに階段で二階へ上がり、商工課でタイムカードを押して奥のロッカーにバッグをしまいこむ。何人かの同僚に型どおりの挨拶をしてデスクに付くと、憂鬱な気分が半減した。ファミレスでの出来事が噂になっていて、好奇の目に晒されるかもしれないと覚悟はしていたが、同じ課の同僚達やもう大丈夫?と声を掛けてきた課長の態度もいつもと同じに見えた。

 滞った仕事がいくつかデスクに置かれていて、午前中は忙しく仕事に没頭できて気が紛れた。お昼は何も摂らず、会議室で自販機の珈琲を飲みながら地元紙を見て過ごした。午後になってだいぶ気持ちが楽になり、雑用を二件こなした後、商工課の定例会議の準備を始めた頃、秋元が話しかけてきた。

「休んだんだって?体調でも崩したかな?」

故意に気安い口調で秋元は言った。

「まぁ、いろいろとありまして・・・・・」

「おおっ?独身女性のいろいろって怖いなぁ」

「つまらないことですよ」

秋元はニヤリと笑みを浮かべ、周囲を気にしながら小声で言った。

「先週の大立ち回りが原因かな?」

「えっ、どうして?」

「だって噂になってるもの。俺はさっき聞いたばかりだけど・・・・・」

「みんな知ってるんだ・・・・・」

近くのファミレスで大騒ぎを起こし、警察まで動員してしまったのだから当然だろうと簡単に諦めた。きっと私のいないところでは、噂で盛り上がってるのだろう、と思うと憂鬱がぶり返した。

「まぁ、いろいろあるよね。人間だから」

そう言って秋元は、慰めともつかないまとめ方をした。

「気晴らしにさ、付きあってよ。今夜、例会の後で何人かで飲むから」

「私、いいんですか?噂の主がいたら噂できませんよ」

「高橋さん、真相を語るってことで」

「ええっ・・・・・行きづらいですよ」

「いいから、いいから」

こんな時、秋元の誘いは素直に嬉しかった。何もかも忘れて、この憂鬱な気分を吹き飛ばせるなら、何処でも付いていこう。母の安否、隆司と姉のこと、姉の妊娠のこと、そして父と叔母のこと・・・・・。そのどれもが滅入るような話題だったけど、目前の現実でもあった。私は、自分自身を見失いかけていた。私はこの先、どう生きたらいいのだろう・・・・・誰のために、何のために。
 不意に山科のことを思い出した。いまはそれぞれの生活を立て直すために離れているけれど、私にはすべてを賭けて愛さねばならぬ人がいる。自らの意地と信念を貫き通そうとして、何もかも失った人。けれどもそのことにさえ、誇りを持っている人。貧乏のどん底で懸命に戦っているその人と、私は一緒に苦労を味わいたかったし、そうしなければならないはずだった。今はそのために生きている、と言うことを不覚にも忘れかけていた。現実に離れてしまうと、そんな大切な心でさえ維持できなくなってしまう弱さ。まして次々に難問が持ち上がってきたことで、取りとめもなく喘いでいる私自身の不甲斐なさを恨んだ。隆司と別れ、中絶を経験してどん底に落ちていた私を救いあげてくれた山科への尊い思いでさえ、ぼやけはじめてしまっていた。


 商工会の部会役員二名と秋元、そして私の四人で市内の炉端焼きで会食した。暮れの年次総会の打ち合わせという名目だったが、そんな話は誰もしなかった。市内の景気や銀行の支店長のゴシップ、会員の
S製作所が倒産した顛末が話題になり、そして来春の商工会議所の研修旅行はサイパンでゴルフ・・・・・と気勢を上げた。二次会は義理を立て秋元の店に顔を出し、ママと挨拶を済ませると三十分ほどで切り上げた。最初の炉端焼きで、辛口で飲みやすいと評判の「天山」を冷酒で数杯飲んで、秋元の店でブランデーのソーダ割りをグラス半分ほど飲んだ頃には、結構な酔いでふらふらな気分になった。そして「面白い店があるのでちょっと寄ってみよう」と役員の一人が言いだした頃には、体中の力が徐々に抜けるような感覚になっていたけれど意識は裏腹にしっかりとしていた。連れられて行ったただ煩いだけの音楽と歓声につつまれていたゲイバーをようやく抜け出して通りにでると、冷たい夜風に晒されて全身が委縮した。震えるような寒さを感じながら通りを歩くと、秋元がタクシーを止めた。

「高橋さん、今夜は付き合ってくれてありがとう」

そう言って秋元は、ふらついた私をタクシーに乗せようと腰に手を回し支えた。

「私、何処へ帰ればいいかな?」

酔いも手伝って秋元にそう問いかける。それは私の心の溜息だった。

「しょうがないなぁ、じゃ送りますよ」

と言って秋元もタクシーに乗り込んできた。窓を開け「俺、送りますから」と役員二人に言うと「おっ!送り狼するの?」と冷やかされた。

「それもいいですねぇ、お疲れ様!」

二人を通りに残し、タクシーは走り出した。

「高橋さん、ご自宅はどこ?」

「・・・・・」

私は答えなかった。このまま実家に帰り、したたかに酔った姿を父や姉に見られたくなかったし、あの息苦しい空間に身を置きたくもなかった。

「秋元さん、私、帰れない・・・・・」

出来ることなら秋元に何もかも、夜通しでもぶちまけたい気分だった。

「そうできたらどんなに楽になれるだろう・・・・・」

私は流れる街の景色をぼんやりと眺めながらそう感じていた。対向車のヘッドライトが目に飛び込み、眩しくて目を閉じる。開くとまた次のライトが眩しい・・・・・。タクシーの中で揺られながら私は、行き場のない閉そく感に苛まれていた。

 秋元がタクシーを止めて運転手に過剰な五千円を支払い、酔った私を命麺屋近くの薄暗い通りに面したホテルに連れ込み、「少し休みましょう」と言ってベッドに横たえるのを私はじっと観察していた。私は十分に酔っていたし、酔いが回って満足に歩くことも出来なかったけれど、酔い潰れてはいない。けれど、酔い潰れた女の姿を想像しながら、演技をしているように振る舞った。今夜は気のいい秋元と一緒に居ることが心地よかったし、可能なら秋元に自分の身の上を晒して軽やかにいなして欲しかった。

 ベッドで横になっていると眠気が漂い始め、油断すると意識が落ちそうになる。秋元はソファーでビールを飲みながらテレビを観ていた。

「うぅぅぅ、ここ何処?」と目覚めたふりをして眠気を払った。

「高橋さん、ちょっと飲み過ぎたね」

秋元は私の手を握りながら顔を覗いた。

「私、こんなところにいるんだ?」

と意地悪な言い回しを咄嗟に投げた。秋元は私の肩に手を回して、

「帰れないんだろう?」

と言うと、ゆっくりと唇を押しつけてきた。

酒臭い息と煙草の味がする濁った唾液が私を追い詰める。息をとめながら拒むことなくその唾液を受け入れた。秋元はナメクジのように私の体に唇を這わせ、ゆっくりとまさぐりながら私を開く。その間私は天井の薄汚れたルームライトを見つめ、徐々に遠くなる意識の中で、隆司にモデルハウスのベッドルームで奪われた遠い記憶が蘇り、婦人科の分娩台の忌まわしいシーンを思い浮かべた。

 目を閉じて、いつでもそうであったように、身を任せてしまう自分が嫌でたまらなかったけれど、決して抗うことはなかった。そして秋元が入ってきたら、何もかもが私の中で意味を失った。秋元が私の中で蠢くほどに、自分を失ってゆく気がした。決して望んでいるわけではないのに・・・・・。

「こうして自ら堕ちてしまう私を、山科は許してくれるだろうか」

そう思った瞬間に秋元の動きが止まり、私の中で後ろめたさが一気に膨れ上がった。

 

 実家の横の、父が家庭菜園にしている畑の前で、秋元の乗ったタクシーを見送ったのは深夜二時過ぎだった。見上げると二階の姉の部屋にはまだ明かりが灯っていた。私はその場で立ちすくみ、震える手で山科にメールした。

 

(一人になります 美枝)

 

送信した瞬間に何もかもが終わりを告げた。私は、僅かに残っていた自らの意思で過去と、そして今を消去したかった。母も家を出た時、きっとそういう気持ちだったのだろうと思った。

薄手のコートの脇から容赦なく寒気が入り込んで冷え切った体を引き摺ってバス停に向かって歩きだした。真夜中にバスなど走っているはずはない。けれども私は、母と同じようにバス停に向かって歩きたかったのだ。街灯のない薄暗い通りを歩き、里芋畑の横に差し掛かったとき、メールが着信した。

 

(君が望むなら)

 

また山科に救われたと思った。

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