期待とは裏腹に、ひと月経っても母の所在は確認できなかった。警察からもあれ以来有力な情報は得られなかったし、新たに出金された形跡もなかった。そのことが徐々に不安を膨らませ、家族の雰囲気も気まずさを増していた。父とは食事の時以外は会話らしい話はしなかったし、姉との間は隆司のことで刺さった棘が抜けないでいた。
十一月半ばの秋の気配が去ろうとしていた夕方に、仕事を終えて帰宅しようとするとあの隆司からメールが届いた。
(佳代のことでどうしても頼みたいことがある。今から少しだけ時間をください。隆司)
隆司とは二度と会いたくはなかったし、姉との付き合いを告げられた時の憤りは、そのままの形で残っていた。返信をすることもなくエレベーターで一階ホールに降り、守衛さんに挨拶をしてエントランスを出ようとした時、正面の柱に寄りかかる隆司を見つけた。そして無視して通り過ぎようとする私の右腕を荒々しく掴んだ。
「逃げるなよ!」
「もう来ないで!」
「そう言うわけにはいかないよ。佳代が大変なんだよ!」
「・・・・・」
いつも何処となく醒めた顔つきで薄笑いを浮かべ、私を自由になる女と決めつけるような隆司の表情は、そこにはなかった。隆司と付き合っていたとき、隆司は意のままに振る舞い、私は躊躇いながらもそれを受け入れた。その様を「年下の男なんてそういうもんだよ」と典子に言われたとき、「年上の女はそういうものか」と半ば諦めた。体を求められれば高揚もするし快感も得られたが、そんな自分を不幸かもしれないと自覚していた。モデルハウスの件が噂になり身を引こうと退社した時、私の中に小さな命が確かに息づいていた。典子に頼み込んで、典子のカレに同意書のサインをもらい自分の意思で分娩台に上がった。「美枝の勇気は真似できない」と典子に慰められたが、現実はボロボロだった。あの屈辱や悲しみ、無力感と罪悪感は決して忘れられないだろうと思った。そして母親になることを自分の意思で放棄したという事実が私にのしかかり、私を潰した。そして私は深い闇に沈んだ。隆司はそれを知らない。僅かな時間であったとしても父親になったことを隆司には知られたくない。それが私の、年上の女の唯一の抵抗だった。
市役所通りの先のファミレスで隆司と話した。夕方の家族連れの来店が始まり店内は慌ただしさに包まれていた。ドリンクバーを二つ注文する。付き合ってた当時なら自分の好みを言って「取ってこいよ」と命令する隆司が、自分からカプチーノとレギュラーを運んできた。
「佳代さぁ・・・・・」
「私の前で呼び捨てにしないでよ!」
「佳代、妊娠したんだ」
「・・・・・」
私は思わず絶句した。隆司は私にしたのと同じ過ちをこともあろうに姉で繰り返したというのか・・・・・。まさか姉が、隆司の子を妊娠したなんて・・・・・。私は混乱し、同時に一瞬、父のことが脳裏をよぎった。カプチーノを一口含み、かろうじて飲み込む。子供達の奇声で溢れる店内、そして真っ当に生み育てる親たちのざわめき。私は、私の人生の対極の光景のなかに埋もれていた。
「隆司、何言ってるのかわかってる?」と私は冷ややかに浴びせた。
「佳代、四十六だし、俺も油断してた」
「そういうことじゃないでしょ!」
「それでさ、佳代、堕さないってきかないんだ。でもどう考えても無理だろ?」
「だから・・・・・全然違う!」
「俺、家庭あるし、佳代は高齢だし・・・・・」
目の前の隆司がぼやけて短時間のうちに全体に広がり、周囲の光景が真っ白になって消えた。
私はトレーの中のフォークを掴み、立ちあがって隆司ににじみ寄った。
「最低なんだよ!」
大声で罵ると無我夢中で隆司に刺しかかった。隆司が父とだぶって見えていた。
店内は騒然となった。私はもたれかかるように隆司と絡み、長椅子の上に倒れ込んだ。店内のあちこちで悲鳴があがり、一人の男性客が駆け寄って私からフォークを取り上げたが、錯乱状態の私はその後も叫び続けた。
「最低だよ!」
「隆司、最低なんだよ!」
幾人かに取り囲まれ、両腕を掴まれて隆司から引き離された。夕方のファミレスは、さながら修羅場と化していた。
ほどなく警察官が駆け付け、私を取り押さえて手錠をかけた。「傷害未遂の現行犯で、十八時十三分確保」と無線連絡され、そのまま警察署に連行された。そして若い警官と婦人警官に取り調べを受けたが、幸い隆司に怪我がなかったことや、隆司が「内輪の揉め事」と証言して傷害事件とならず、またファミレス側は物損がなかったことで、「穏便に」と申し出てくれたため事件化を免れた。九時過ぎには父が、身元引受のために出向いてくれ、夜十一時を回った頃、すっかり憔悴しきった私の肩を抱き支えるように警察を後にした。
翌日から仕事を休み、週末を挟んで何をすることもなく五日間を過ごした。その間私は何も考えることなく部屋に籠り、ただ目に映るものだけを眺めて過ごした。幼い頃から使っていた学習机の傷や購入してみたもののほとんど使わないで放置したキーボード。壁に賭けたバッグや制服・・・・・。堕胎して母親の権利を放棄した時と同じように、暗闇の中に沈んでいた。