母が家出をして二週間が経つ頃、秋は終わろうとしていた。夕方の空気が日に日に冷たくなって、街路樹が風に吹かれて落葉した。母の行方はまったく分らなかったが、私は努めて母のことを思い出さぬよう職場で振る舞った。
地域振興券の換金申請は総額四億円を超え、スムーズな商工会議所の手続きに比べ市役所の支払い処理が滞り始めた。申請から七営業日以内での換金をうたった事業で、十月二十五日以降は翌月末の一括支払いになると市は通告してきた。そのことで加盟店からの苦情が相次ぎ、私はもっぱら苦情対応に追われることになった。大きな会社ならまだしも、小さな商店などでは現金収入が振興券に変わってしまう。換金が一ヶ月もかかったら現金が持ち出しになってしまうのだから苦情は当然で、中には「店が潰れちゃう」と悲壮な訴えをする加盟店もあった。
そんなドタバタのなかで実夏に二日間休まれたのは痛かった。四六時中鳴る電話の対応をしながら申請書をチェックし窓口対応もしなければならず、二時間の残業許可を課長に申し出る羽目になった。他の部署が手伝うわけでもなく、残業に嫌味を言われると言う理不尽さには腹が立ったが二日間だけ、と我慢した。実夏が休んだ二日目の残業時に秋元が「まだいいかな?」とカウンターに現れた。
「お世話様です。今日は高橋さんですね。残業なんて大変だなぁ・・・・・」
「いえいえ、明日からまた植村さん来ますから大丈夫です」
「あれ?聞いてないの?植村さん、辞めちゃったみたいだよ」
彼女に何があったかはわからなかったが、休暇届けは確か二日間で提出されていたはずだった。
「私、聞いていないので課長に確認してみます」
「そのほうがいいかもね。ずっと一人じゃね」
そう言いながら秋元は申請書に金額と社判を付き、振興券の束と明細書を取りだした。
「今回は四百万以上あるから、慎重にお願いしますね。期間延びちゃって痛いけど、お役所仕事ってあてにならないね」
人懐こい笑みを浮かべながら秋元は言った。一通りの手続きが終わると七時近くになった。
「もう今日は終わりでしょう?どう?夕飯でも一緒に」
「あれ?秋元さんはお仕事、これからでしょう?」
「あっ、大丈夫。女房が仕切ってるから俺なんか邪魔なんだよ」
「そんなこと言って叱られますよ」
「どう?美味しい中華料理知ってるけど」
「時間ないですよ。それに、いいですか?そんな誘い方」
「いいの、いいの。じゃ、軽くラーメン!」
「餃子つきます?」
「了解!」
小気味よく乗せられた感じだったが、この日に限っては悪い気分はしなかった。それに実夏のことを課長に聞くよりは秋元のほうが詳しいかもしれないと思った。
秋元はフロアで数人の仲間に「これから高橋さんとデート!」と触れまわり、冷やかしの言葉を投げられた。私は急いで帰り仕度をしてタイムカードを押すと、遅れまいと小走りに秋元に追いついた。会議所を出て歩調を合わせるように歩き、市役所横の広い駐車スペースの一番手前に止められた秋元の車に乗り込んだ。高級な車の助手席に乗り気分は高揚していたけれど、僅かな後ろめたさもあった。昼間は死んだように息を潜めているけど、夜になると豹変する市内で一番の飲み屋街脇をすり抜ける。秋元は「この通りにうちの店が三軒あるの」と言いながら、信号を右折して駅前横の陸橋を超えて南口へ。そして地元にいても滅多に来ることのない怪しげな裏通りのはずれに秋元は車を止めた。その先には命麺屋という如何にも名店という雰囲気の看板があった。
「ここはね、日本一美味いよ。ねぇ、マスター」
「社長!ありがとうございます!」
威勢のいい声が店内に響いた。
「テレビで良くやってるお湯切り、やるんですか?」
思わず軽口を言ってしまう。
「はい!奥さん!やります!」
と派手なパフォーマンスを始めた。秋元は上機嫌で「この人、新しい奥さんだから。マスター、よろしくね」と軽口を続けた。
「極上」と言う割には何の変哲もない味噌ラーメンだったけど、ありがちな鰹節や大量の煮干しを使った魚臭い出汁でなかったのが救いだった。ねだった餃子はニラがきつくて食べきれず半分を残した。
「ところで秋元さん、実夏ちゃんはどうして・・・・・」
「内緒よ、この場で忘れてよ。あのね、不倫らしいよ。主任らしいけど」
秋元はウインクをしながら囁いた。そしてくれぐれも秘密だと、何度も念を押した。
「あっ、高橋さん。思い出したんですよ。確かうちの店で会ってますよね?」
「思い出しました?」
「確か女房の友達と一緒に。山科社長もいたかな。あの時ねぇ・・・・・」
「分っちゃいましたね。お綺麗な奥様で羨ましかったなぁ」
「あれは営業用の顔だからね」
「そんなぁ」
「でも奇遇だね」
「そうですか?」