不定冠詞

今 薫 書き下ろし連載小説

カテゴリ: 3

 母の家出から六日目の週末の晩、隆司からメールが届いた。

(しばらく。典子さんから新しいアド聞いた。戻ったんだって?明日午後にお茶でもどう? 隆司)

 典子は数少ない友達の一人で高校の同級生だった。親友と言うには気兼ねが多かったけれど、交わらない平行線のようなお互いの性格が心地よい存在だった。でも・・・・・、隆司にメルアドを教えたことは許せない気がした。


(駄目。もう会いません)

(相談あり。美枝じゃないと言えない。三時にルカフェで)

(無理です)

(待ってる 隆司)

 

 隆司はいつも身勝手だった。三十を過ぎた頃、派遣で地元の住宅会社で働き始め、上司の受けが良くて一年後に晴れて正社員になったとき、五歳下の隆司は入社三年目の営業部員だった。私の肩書は「ハウスコーディネーター」という中途半端なもので、客と設計との狭間で揉まれる損な役割だったし、時には営業に近い仕事をさせられもした。

 その夏一番の日差しが照るつける日にダブルブッキングしてしまった隆司から「片方のお客様にモデルハウスを案内してほしい」と頼まれた。突然の依頼だったため、私は営業の進捗や客に関する情報の確認をする余裕がなかった。本社ロビーで隆司から紹介された二十代後半の今風の若い夫婦は、「これで家が持てる」と浮かれていた。ある程度騙してでも販売することが仕事とはいえ、客によってはどうしても気が進まないことがある。ローンを組み、一生に一度の大きな買い物をするという覚悟が見えない客の場合はなおさらだった。

  現地で各部屋の間取りを案内し、リビングで家の概要を説明し始めると、「こんな家が坪三十万だなんて安いですよね?」と切り出された。

「いえ、お客様。こちらの物件は少々グレードが高く坪六十万はどでございます」と説明すると、二人の表情がにわかに曇って機嫌を損ねた。

「営業の人は坪三十万からと言ってましたよ。それでここを案内されたんですけど・・・・・」と若い妻が不満を口にし、夫も「倍じゃない!見ても意味ないっしょ」と応じた。

「営業さん、ちょっと無責任よね」

「俺達、馬鹿にされたのかもな」

案の定の成り行きに私は無性に腹が立ったが、懸命にその場を取り成そうとした。でも、言い訳のような受け答えをすればするほどに逆効果となって、ますます雰囲気が悪くなっってしまった。そしてその若い夫婦は、挨拶など上の空で「時間の無駄」と吐き捨てて帰って行った。

 夫婦と入れ替わるように、流れる汗をハンカチで拭いながら隆司が入ってきたのは閉館の五分前だった。隆司は「高橋さん、今日は申し訳ない」と手刀で拝むように言った。「私、機嫌を損ねちゃったみたい・・・・・」と夫婦の様子を大雑把に、事務的に隆司に伝えた。隆司は状況が把握できな様子で、怪訝そうな表情を浮かべた。そして帰り仕度のためデスクの書類を束ね始めたとき、急に語気を荒げた。

「ちゃんと説明してくださいよ。今月の本命なんだから・・・・・」

額に汗を滲ませ、赤ら顔でネクタイを軽く緩めながら隆司は言った。

「営業さんは坪三十万って・・・・・そのあたりをちゃんと説明しないと・・・・・。うちの平均は五十二万でしょ? そして此処は六十万ですよ」

「最初はそう言うでしょ!それが営業なんですよ。後で徐々に上がっちゃうもんでしょ」

「そうね、じゃ、上手くやって」

詰まらない口論になった。室温が低すぎたせいか、若い夫婦に対応していた時から頭痛が始まり、下腹部が痛み出していた。隆司は「客を逃がしたらどうしてくれるの? 責任とってよ」と口論の果てに言い放ち、それ以上私は諦めた。

「私、帰ります。戸締りよろしくお願いします」

振り返ることなくバッグと書類を抱え玄関ドアを開けたとき、這うように滲み出る一筋を感じた。

 そのことがあってから、私は隆司を敬遠した。大人げないとは思ったが、仕事の打ち合わせで同席しても顔を見ないように振る舞ったし、他でも相対で話すことは極力避けていた。良くある仕事上のトラブルの一つと分ってはいたが、どんな形でも営業のほうから謝罪があるべき、と妙に拘っていた。隆司は隆司で、その若い夫婦を取り逃がし営業成績を落とした。

 秋が深まって冬も間近な北風の強い日に、上司から「今日だけいいかな?」とモデルルーム番を頼まれた。朝九時前に現地へ出勤し、各部屋のカーテンを開けエアコンの温度調節を終えて来場者を待ったが、午前中は一組もなくて暇を持て余した。昼時の来場者のために昼食を我慢して待機していた時、初老の夫婦が「息子の家づくりの参考に」と、十分ほど見学して帰った。そして初頭の弱々しい陽が傾き始めた頃、男の子の兄弟を連れた夫婦がやってきた。

 「いらっしゃいませ」と私が声を掛けるや否や兄弟は、靴を乱暴に脱ぎ捨てると奇声を発しながら追いかけっこを始めた。「静かにしなさい」という母親の言葉など聞く耳を持たず、一階の廊下とリビングを走り回った。そんな子供たちを尻目に母親はあれこれと質問し、私は平静を装い型通りの説明を続けた。父親は時々兄弟を制していたが、説明には興味を示さなかった。二階を案内すると、いよいよ兄弟は本領を発揮し始めた。寝室のベッドメイキングを台無しにし、サイドテーブルの花瓶を落として割った。「申し訳ありません」と父親は形ばかりの謝罪をしたが「元気がいいですね、大丈夫ですよ」と無理やり笑顔を作った。 

 

散々に荒らされた各部屋を整え、破損をチェックしてメールで報告した後、キッチンテーブルで缶珈琲を飲むと徐々に苛立ちが和らいだ。同時にキッチン奥の小窓から西日が差しこみ、ほんのりと背中を温めた。私は心地よい暖かさに包まれ、その場で伏せってうたた寝をしてしまった。しばらくしてガタンという物音に目覚めると、目前の椅子に隆司がいた。

「高橋さん、疲れてるの?」

勤務中の居眠りを見られたというのに、隆司の口調は優しかった。

「ごめんなさい、ちょっと片付けに疲れちゃって・・・・・」

「山崎さんの家族でしょ。男の子の兄弟のいる」

「知ってるの?」

「さっき電話を貰ったから。迷惑掛けたって謝ってましたよ」

「凄かったのよ」

「今月の僕の本命なんだよね・・・・・ごめんね」

穏やかな表情を浮かべ謝罪する隆司に、私は優しさの欠片を感じてしまった。そして私は、兄弟の悪童ぶりを面白おかしく隆司に説明した。

「それだけじゃなくて、ベッドルームは障子に穴もあけられたのよ。見る?」

敢えて和風にデザインされたベッドルームには、差し込む日差しを和らげる効果のある障子が使われ、ベッドサイドには和風の生け花が置かれていたが、割られたままにしておいた。そんな部屋にも関わらず、スペイン風の大柄で派手な柄のベッドカバーがいかにもミスマッチな演出だと思った。隆司は障子の穴を一瞥しただけで無視するように「この部屋に、このベッドカバーは無いよね」と言いながら大の字に倒れ込んだ。

「ちょっと・・・・直したばかりなのよ!」

「いいじゃない!気持ちいいよ。高橋さんもそっちのベッドに寝転んじゃえば?子供の気持ちが分ったりして」

隆司にはこの二カ月あまりの私の態度に拘りはないのだろうか?気にしてないの?と思いながら促されるままにベッドに倒れ込んだ。

「気持ちいい!見つかったら叱られちゃうけどね」

そう言って私は目を閉じた。そしてほんの一時、私は暴れまわる兄弟を思い出した。「確かに飛び跳ねたくなるか」と大きく溜息をついて目を開いたとき、目前に隆司の顔があった。そして次の瞬間に唇を塞がれ、荒くなった息を吹きかけられた。

「ちょっと、何してるの!」

払いのけようとして顔を背けると

「嫌いじゃないから」

と押し殺すように隆司は言った。

「やめて!こんなところで」

隆司は私の両腕を掴み、男の力で押さえた。強引に唇を押しあてられ遮ろうとして顔を背けるとピアスを噛まれた。沈黙の中で全身の力が抜けていくのが分った。

 

 隆司とは二年ほど続いた。五歳下の隆司は何かにつけて甘え、時に威張り、まさかというシチュエーションで体を求めてきた。典子に年下の彼ができたとき、カップルで食事しようと誘われた。「お互いに年下なんて偶然よね」と典子は言い、私は「そうね」と受け流して気の進まない会食をした。典子は盛り上げようと陽気に振る舞ったが、それを無視するかのように隆司の左手は私のスカートの中に入り込んだ。

 食事が終わって別れた後、典子達の視線を感じる位置で隆司は強引にキスを求めてきた。そして駐車場の隅に止められた車に乗り込むと、「変な気分」と言いながら覆いかぶさってきた。街灯の明かりを遮るように体を傾け胸をまさぐってくる。不自由な姿勢で強引にはけ口にされた時、涙があふれ出た。急いで身支度を整えてドアを開け、隆司の印が流れ出るのを感じながら私は県道沿いを歩きだした。振り返りはしなかったが、隆司は追ってはこなかった。

 夏には典子達と富士山登山に出掛けた。前日まで優柔不断を決め込んでいた隆司が、午前零時を回った頃電話してきて急に行くと言いだしたお陰で、改めて二人分の荷造りを明け方までしなくてはならなかった。朝八時過ぎになって「迎えに来い」という電話があった。九時に隆司の実家の五十メートル手前で車を止めて待つ。隆司は寝不足で朦朧としていた私に眩しいほどの笑顔を浴びせ、「おはよう!」と言って助手席に乗り込んできた。

「急に言わないで」

「急に行きたくなったからさ」

「助手席なの?」

「疲れ気味なんだよ」

隆司はシートを半分倒し、足を組んでラジオを聴きはじめてしまった。

 地図を頼りに関越自動車道を川越で降りて、渋滞の十六号を我慢強く走って八王子インターから中央高速に乗るまでに四時間半・・・・・。居眠りをすまいと必死に運転している私に、

「まだ着かないのか?いい加減飽きてきた」と隆司は言い放った。談合坂のサービスエリアから目星をつけていた数軒のペンションに電話を入れたがすべて満室だった。

「綺麗な部屋を取ってよ。せっかく来たんだから」

それから十数軒手当たり次第に電話をして、空いていたのは河口湖近くの、民宿と代わり映えのしない宿屋だった。

 宿から典子達の宿泊先に連絡すると、「快適!快適!そっちは?何処に泊ってるの?」と浮かれた声が響いた。明け方に五合目を出て山頂を目指すと言う。隆司のせいで登れるかどうかも分らなかったが、山頂で落ち合う約束をするしかなかった。

 お世辞にも綺麗とは言えない湿った空気の部屋には、ツインベッドに申し訳程度の小さなテーブルとやけに大きな鏡があった。私は初めての長距離運転のせいで体中が鉛のように重くなってしまった。テーブルの上に置かれたパンフレットには、「豪華ディナーと大浴場で富士登山を満喫」というキャッチがあったが、豪華・・・・・と言うにはあまりに粗末な食事をとったあと、大浴場とはとても言い難い共同浴場で熱いお湯に浸かった。それでも少しは疲労が回復した気分になり部屋に戻ると隆司は不貞腐れていた。

「こんなところを予約するなよ!飯も不味かったしさ」

そう言いながら下着を付けていない胸をまさぐりベッドに押し倒してきた。

「冗談やめてよ!明日は登山するんだよ!」

そう言いながら渋々体を開いた。明日下山したら別れようと思った。

「お前はそれしかないのか!体だけかよ!最低男っ!」

隆司を受け入れた頃にはその思いも消えかかっていた。 
 

 翌日は朝から雨の日曜となった。昨夜なかなか寝付けずに何をするでもなく三時頃までベッドでぼんやりとしていた。そしてようやく寝付いたばかりのはずなのに、些細な物音で目が覚めてしまったのは六時過ぎだった。カーテンをを引き窓を僅かに空けると外はまだ真っ暗で、冷たい空気の中に雨音が響いていた。見下ろすと父らしい人物が、玄関脇の狭い敷地に止めた車の向こう側に玄関の薄明かりに照らされて立っていた。

 七時にはトーストと珈琲の簡単な朝食を摂ったけど、姉はまだ寝ているらしく父は野菜の手入れから戻らなかった。十時頃、叔母の家に電話したが、母からの連絡はないと叔母は言った。そして岩手の一関の、今では行き気のない親戚筋や会津にすむ従兄のところにも立ち寄った形跡はなかったと付け加えた。事故の可能性も今のところないことを、一昨日姉が警察に出向いて確認済みだったし、私の、母の行き先リストはすべて塗りつぶされていた。お昼に姉が珍しく台所に立ちチャーハンを作ったが、食べる気がしないと言うとムッとした表情で「我儘なんだから!」と吐き捨てた。そして午後二時頃、隆司からの念押しのメールが来た。

 

(三時にルカフェ 必ず来いよ 隆司)

 

 私はよどんだ空気の実家から逃げ出すように、行き先も告げないまま外出した。運動公園の脇を通り過ぎ国道を横切ると女子高の前に出る。左折すると大きな欅の並木道に出て、そこは地方にしては洒落た部類の店が点在する、地域で一番のスポットだった。五百メートルほどの並木道が終わる東側の角に、昔のままのルカフェがあった。到着して駐車場に入る頃にはいよいよ雨は本降りとなった。

 別れてから十年以上・・・・・私も隆司も歳をとった。おまけに隆司は別れて半年もしないうちに身重の同級生と結婚した。ダブっていたのは明白だが、不思議と隆司には腹が立たなかった。

「私、この二年間、何をやっていたんだろう・・・・・」

そんな男の言い成りになっていた自分が、思い切り滑稽に見えたから。

 

 三時少し前には駐車場に着いたけれど、隅に止めて時間を潰すことにした。ワイパーを止めると雨だれで外が見えなくなったが、外から見られることも無いだろうと思った。ほどなく一台の車がバシャバシャと水溜りを跳ね上げて隣に止まった。隆司だと思った。隆司が気付かずに入店してから五分待って、ハンカチを広げ小走りに入口の軒下にむかう。カウベルの付いた重いドアは昔のままで、手前には大きな壺の傘立てがあった。

「久しぶり!変わらないね、美枝は」

西日が射し込むと眩しくて、手で遮りながら珈琲をすすっていたあの頃の、いつもの席に隆司は座っていた。

「変わったよ、私は。隆司も変わったね。いいお父さんしてるのかな?」

自分でも驚くほど軽やかに言葉を発した。

「そうでもないけど・・・・・」

そう言いながら隆司は飲み掛けの水を一気に飲み干した。短くカットした髪にはところどころ白髪が混じり、薄いフレームでできた流行のデザインのメガネをしている。ちょっと悪そうな雰囲気を出してるつもりでも、妙に可愛らしく感じる八重歯がのぞけばそれも台無しなのだ。

「相談って何なの?」

「お母さん、手掛かり掴めた?」

思いがけない言葉が隆司の口を突いて出てきて私は硬直した。僅かに取り乱したけれど、何とか平静を装いながら「関係ないでしょ」と遮った。「噂になっているのか?」とも思ったが少なくとも自分の交友関係に話した覚えはなかった。

「ねぇ、誰に聞いた?」

「言えない」

「何よ、それ!」

「言うと美枝が怒るに決まってる」

「どういう意味?」

私の問いかけを無視するように隆司はブレンド二杯とチーズケーキを注文した。

私は嫌な気分に満ちていた。言い掛けて言葉を飲み込むというのが、私の中では我慢できないことの一つだった。沈黙が続き、私が大きく溜息をついたとき、隆司は意を決したように話し始めた。

「今、実は・・・・・佳代と付き合ってるんだ」

「カヨって?」

それ以上言葉がでなかった。

付き合ってるって不倫?男と女の関係?でもなぜ姉と・・・・・何処で知り合って・・・・・何、それ・・・・

「美枝のせいだよ。お前が悪いんだ」

「ふざけないでっ!」

声を荒げて立ちあがった時、店員が珈琲とケーキを運んできて真横に立っていた。左肩がトレーに当たり、珈琲は床一面に零れ、カップの一つは割れて砕けた。チーズケーキは無様にも裏返しになって床に潰れた。
 

 あの時・・・・・、青息吐息で富士山に登頂を果たしてすぐに下山し、その日の夜中過ぎに疲れ果てて戻って以来、私は発熱して寝込んでしまった。一週間会社を休み部屋に籠る羽目になり、心配した姉が典子に電話して一部始終を知った。隆司の存在も隆司との旅行だったことも典子は姉に話してしまった。怒った姉は隆司を呼び出すと、

「平気なの?美枝ちゃんのこと、悪いと思わない?」

と精いっぱいの言葉で隆司を詰った。

「まさか遊びじゃないんでしょうね?」

隆司は答えなかった。

 それから一年ほど隆司との関係は続いた。次第に仕事が忙しくなってお互いの時間が思うように取れなくなると、モデルハウスで営業を口実に密会した。二年目の夏、見学時間が終わった後いつものように鍵を閉めてベッドルームで体を合わせたとき、インターホンが鳴った。隆司はベッドの脇の椅子に無造作に脱ぎ捨てた下着とスーツを慌てて身に付け、最後ネクタイで手間取って上着のポケットにねじ込むと、素早く階段を下りドアロックを解除した。営業課長とインテリアの宮路さんだった。私は隣のベッド上に散乱していた服をかき集めたがブラが見当たらず、仕方なしにそのままブラウスとスカートを付けて制服のブレザーを着た。一階のリビング脇の事務室で隆司が課長とあれこれ話している間、、私はベッドメイキングをなんとかやり終えたが、それ以上部屋を取り繕うことはできなかった。そして一階へ降りようとすると、ドアの前に宮路さんが立っていた。彼女は内装部門のチーフだった。

「何してるの、高橋さん・・・・・」

「見学者のお子さんが暴れて乱れてしまったので・・・・・」

「そうですか」

私は精いっぱいの作り話を聞かせ、演技をしたが、乱れた髪とメークを直す暇などなかった。そしてあたりを見回す宮路さんの視線が止まり、その先のサイドテーブルの陰に隆司が強引に剥いだブラが横たわっていた。

 翌日から噂は社内を駆け巡った。テレビドラマのように面と向かって嫌味を言われることはなかったし、仕事中に好奇な視線を感じることもなかったけれど、噂を疑う者など一人もいないと思った。隆司は何食わぬ顔で仕事をした。以前と変わらぬ態度で同僚と雑談し、若い女子社員をからかったりもしていた。だが次第に私のあからさまな批判が耳に届くようになった。夏が終わり、秋風が吹き始める前に、私は退職して隆司と別れた。それは医師から十週目を告げられた直後だった。

 三時半にルカフェを飛び出し、本降りの雨の中運動公園の駐車場で車を止めた。早く冷静さを取り戻したかった。そしてラジオのスイッチを入れようとした時、ワンピースの左の肩口に珈琲の大きな染みが付いているのに気が付いた。ハンカチを雨で濡らして染み抜きをしようと何度も押しあてたけど、思うように抜けなくてますます気持ちが高ぶった。

「姉と隆司が・・・・・何それ、馬鹿みたい!」

もしも自分が冷静なら、そして他人事なら、滑稽な話と聞き流せるかもしれない。でも・・・妹と二年間付き合い妊娠までさせた年下の隆司と付き合う姉、寝物語のように家出した母の話を隆司にする姉、私の前で何食わぬ顔で振る舞う姉、妻子がいるのに姉に手を出す隆司、姉から聞き出した母の話を口実に別れた妹を呼び出す隆司、いつ、どこで、どんな格好で母の話なんか・・・・・現実と想像が入り混じり、フラッシュバックしてますます私を混乱させた。 

 六時過ぎに戻ると父は頬がこけ、白髪混じりの無精髭と乱れた髪のまま、黙って食卓に座り気のない表情でテレビを見ていた。姉とは顔を会わせたくないと思った。隆司のことは私にとっては過去だけど、姉にとっては今そのものなのだ。これから隆司の影を姉妹の間で引き摺らねばならないと思うと気が重かったし、何よりも母の家出を隆司に話している姉の気持ちが許せなかった。

「美枝ちゃん、何処へ行ってたの?」

普段通りの態度で話しかけてくる姉の神経がきつかった。

「何処でもいいじゃない。それよりお母さんのこと、何かわかった?」

「いま、警察が探してくれてるよ」

「そんなんでいいの?もっと真剣に探してみなくていいの?」

「美枝ちゃんだって探してないじゃない」

そんな姉妹の会話に父が割り込んだ。

「お前たち・・・・・」

そしてすぐにまた黙り込んでしまった。

 父は退職後、僅かな退職金と暮らすにはとても足りそうにない年金で、母の面倒を見て過ごした。私は八年間一人暮らしをしていたから、ほとんど父を話す機会が持てなかったが、去年実家に戻った時、「父は変わってないな」と思った。二十五歳の時に岩手から就職のために埼玉に来て以来、二、三度転職した後は地元の運送会社でトラックドライバーとして三十年以上黙々と勤めた。そして体力が衰えてきて倉庫勤務を始めた頃から、母の鬱は酷くなりはじめた。母は時折パートの仕事もしたが、ほとんどは家事と子育てに明け暮れた。その単調な生活が母には苦痛だったのかもしれないと思った。父は長距離には乗らなかったが、しばしば深夜の帰宅になるほど不規則な勤務で、その割には薄給だった。姉は高校卒業後地元の製造業に事務として就職し、私は二年間、専門学校の秘書コースへ進んだ。隆司との事があって退職し、気分を変えるためにと一人暮らしを言い出した時、父に「自分の力でやるなら」と念を押されたが、帰ってその言葉で気が楽になった。家を出て八年間、私は自由に暮らし、その間実家の事情などほとんど気にかけることはなかった。
 父と姉妹の、重苦しい雰囲気の夕食を終えるとそれぞれが自室に引きこもった。


 

このページのトップヘ